書籍・雑誌

雫井脩介『犯人に告ぐ』★★★★★

これまたおもしろかった。2冊続けて「当たり」を引くなんて、本当に幸せな気分だ。これだから本漁りはやめられない。

雫井脩介さんは、『火の粉』という作品が好印象で、過去に出版された作品はだいたい読んでいるが、これは文句なしの著者の過去作品ナンバーワンだろう。ストーリーの緊迫感、キャラクター設定、奥行き、ミステリーとしての完成度が卓越している。ストーリーは↓のとおり。

神奈川県警は、全く手がかりがつかめない連続児童誘拐殺人事件に手をこまねいていた。万策尽きかけていたそのとき、キャリア捜査官の植草が一つの提案をする。その打開策とは、TVメディアを使って犯人に直接呼びかけを行い、犯人の反応を待つという前代未聞の捜査方法だった。“劇場型捜査”と名付けられたその捜査に必要な、大衆の前に立つ広告塔として、白羽の矢が立てられたのが巻島である。彼は過去に、児童誘拐事件の捜査に失敗し、その後のマスコミ対応でも失態を演じたために、左遷させられていた刑事である。かつて自分の身を破滅させたマスコミを手なづけ、事件を解決しようと試みるのだが……。  個性的な登場人物たちの思惑が複雑に絡み合いながら進行する“劇場型捜査”を、圧倒的な臨場感で描く異色の警察小説。(ダ・ヴィンチWebより)

ちなみに、この小説は既に映画化されている。未見だが、主演は豊川悦司さんだそうで、おそらくこの方が「主人公巻島」を演じたのであろう。個人的には、小説を読んでいる最中、妙に巻島の姿にダブったのが、いま話題の大阪府知事・橋下知事なのだが(笑)。巻島だけではなく、彼を支えるキャラクターたちにも、魅力的な人物が多かった。

巻島より五つ年上の津田は、この署の刑事課の大番頭的な存在である。敵を作らない性格の男で、悪態をつくことしか知らない容疑者を相手にしても決して声を荒らげることはしない。厳しい言い方をすれば刑事としての迫力不足は否めず、その分、出世もそれなりのところで落ち着いてしまっているわけだが、それだけでは全部を評価したことにならない独特の味わいが彼にはある。およそ管理職らしからぬアウトサイダーと課長の双方を立てて、ここの課をまとめあげたのは、津田の何気ない気配りの一つ一つであった。それがあってこその検挙率県内一位の座であることは疑いない。津田が頷くだけで、自分が下した采配にあった一抹の不安が消える。そんな不思議な包容力を持った男でもある。

「津田長」はこんなことも言う。

ただ私はね、人の道を外すも外さぬも、その違いは何かって言うと、ちょっとした頭の中のホルモンだとか何とかの問題だという気もするんですよ。それが変なふうに偏ると、理性に麻痺を起こしてね、本人自身もどうしようもなくなるんじゃあないか・・・・・・ただ、それだけのような気がしましてね。自由に、適当に、我がままに生きているような人間でも、実はそんなホルモンバランスに支配されてるだけでね、生きるのを許されてる道は細くて狭いんじゃないですかな。

このくだりを読んで、私は先日読んだ林郁夫氏の『オウムと私』をなんとなく思い出してしまった。と同時に、心を病む実家の弟のことも。

ミステリーは、トリックや謎解きに至る完成度の高さが、評価の決定打になる。でも私は、こうしたキャラクターの魅力を通じて、人生の無常さとその中で見つける喜びのようなものが織り込まれている作品が好きだ。

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海堂尊『チーム・バチスタの栄光』 ★★★★★

いやー。おもしろかった。ベストセラー入りしているのは知っていたけれど、医療がらみの作品は、自分自身の仕事を連想することから敬遠していた。しかし、たまたま美容院に向かう道すがら、施術中のヒマつぶしの種を探しにBOOKOFFに入ったときについつい衝動買い。読み始めた途端、なぜもっと早く読まなかったかと後悔した。あらすじは↓のとおり。

東城大学医学部付属病院は、米国の心臓専門病院から心臓移植の権威、桐生恭一を臓器制御外科助教授として招聘した。彼が構築した外科チームは、心臓移植の代替手術であるバチスタ手術の専門の、通称“チーム・バチスタ”として、成功率100%を誇り、その勇名を轟かせている。ところが、3例立て続けに術中死が発生。原因不明の術中死と、メディアの注目を集める手術が重なる事態に危機感を抱いた病院長・高階は、神経内科教室の万年講師で、不定愁訴外来責任者・田口公平に内部調査を依頼しようと動いていた。壊滅寸前の大学病院の現状。医療現場の危機的状況。そしてチーム・バチスタ・メンバーの相克と因縁。医療過誤か、殺人か。遺体は何を語るのか…。栄光のチーム・バチスタの裏側に隠されたもう一つの顔とは。第4回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。 (Amazonより)

なにがいいって、キャラクターがすばらしい。どの登場人物も個性にあふれていて、主人公はもちろんすべてのキャラクターが魅力的だ。「このミステリーがすごい!」で審査員満場一致で大賞に決まったというのもうなずける。医療現場の設定もいやにリアルだな・・・・・・と思ったら、執筆者の海堂尊さん、現役のドクターとのこと。なるほどと思う反面、ここまでエンタメに徹した作品を、本業のかたわら楽々仕上げるなんてすごすぎると驚いた。天も気が向いたときにはニ物を与えるのね・・・。

ちなみに医師は、理系の仕事と思われがちだが、実は文章のうまい人が多かったりする。論理的思考が求められる上、日ごろカルテやら論文などを書きなれているせいかもしれないが、でもしかし・・・。これほどの文才を「趣味」として持っているなんて絶句してしまう。いや、むしろ「趣味」だからこそ、こんな風に自在にキャラクターを遊ばせられるのかもしれない。読んでいてとにかく心地よいのは、作者自身も楽しんで書いているのだろうなと思えるキャラクター設定の自由度の高さと、それぞれのキャラの脚色されていながらも生き生きと躍動する人間的魅力だ。「名作」とされる小説に求められるある種の深刻さが薄いということは言えるかもしれないが、それでもこのキャラクターたちの活力あふれる姿には魅了される。久々に実力派の作家に出会えてうれしい。今後、書店でこの作家の作品を見つけたら問答無用で即買いしようと思う。

そうそう。以前から不思議に思っていたことをひとつ。私は文庫本の編集をやったことがないので、よくわからないのだが、最近、さほど長編ともいえない作品が、わざわざ上下巻に分けて出版されているケースをよく目にする。これってやっぱり販売収入増を目的としているんだろうか? おもしろい作品ほど、2巻や3巻組になっているような気がする。編集会議で「この小説はぜったいに売れ売れだから、上下巻に分けて出そうぜ!」といった会話が展開されているんだろうか。個人的には、価値ある作品にはそれなりの対価を支払いたいと思っているので異存はないのだけれど、なんとなく気になる。

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帚木蓬生『アフリカの瞳』 ★★★☆☆

帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは、私の大好きな作家のひとりだ。『三たびの海峡』という小説に感銘を受けて以来、これまでに発刊されている小説はほぼすべて読んでいる。帚木氏自身は、東大を出てテレビ局に勤めたあと大学に入りなおして医師になり、現在も福岡県で開業医として医療の現場に立つという異色の経歴をもつ作家なわけだが、私が初めて帚木氏の作品を読んだときには、そうした予備知識はなかった。医療のみならず幅広いテーマを取り上げ、そのひとつひとつに肉薄し同一化する器用さと圧倒的な筆力を持ちながら、それらがまったく上滑りせず、底には常に深い人間考察と優しさが流れていて、読むたび魅了されてきた。作品によってのめりこみ具合は異なるものの、総じて「ハズレのない作家」というのがこれまでの印象だ。

ちなみにこの小説は、同氏の旧作『アフリカの蹄』のシリーズ別編だそうだ。本棚を見てみたらその作品もあったので、読んだはずなのだが、タイトルを見てもストーリーがまったく思い出せなかった。しかし悪印象があればそれはそれで覚えているはずなので、私的には「可もなく不可もなくおもしろい」というところだったのではないか。双方のあらすじをAmazonより引用しておく。

『アフリカの蹄』
絶滅したはずの天然痘を使って黒人社会を滅亡させようとする非人間的な白人支配層に立ち向かう若き日本人医師。留学先の南アフリカで直面した驚くべき黒人差別に怒り、貧しき人々を救うため正義の闘いに命をかける。証拠品の国外持ち出しは成功するか!?山本周五郎賞受賞作家が描く傑作長編冒険サスペンス。

『アフリカの瞳』
国民の10人に1人がHIVに感染。毎日200人の赤ん坊が、HIVに感染したまま生まれてくる国。ここではエイズという絶望すら、白人資本に狙われる…。いまわれわれに生命の重さを問う衝撃作。

どちらも決して退屈ではないのだが、主人公ほかのキャラクターが、もう少し特徴的だったらエンターテイメント性が増したように思う。エンタメに走ること自体の是非もあるだろうが・・・。医療職ならではのピンポイントな視点はもちろん、これと決めた対象に深く迫りリアルに追求する力量はとてつもなく貴重だと思うので、次作に期待したい。個人的に、帚木さんの作品には、なんともいえない思い入れがあるので、これからもずっと応援し続けるつもりだ。

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村上春樹訳 トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』 ★★★★★

村上春樹がカポーティときたら、買わないわけにはいかない。実は私は、カポーティの『冷血』が大好きな作品であるにもかかわらず、この『ティファニーで朝食を』を初めとする初期の作品の旧訳原作はもちろん、ヘップバーンが主役を演じた映画版すら観たことがなかった。そのため、この作品に対して勝手に抱いていたイメージは、ジバンシィのドレスを身にまとって頬杖をつくヘップバーンのコケティッシュかつ、圧倒的な美しさだった。

しかし、今回改めて原作を読んだ印象は、「ゑ?この主人公がヘップバーン?」というものだった。小説のなかの主人公ホリー・ゴライトリーは、ヘップバーンのような王道をゆく魅力的な女性像ではない。小悪魔的なキャラでかぶる部分は多少あるかもしれないけれども、ヘップバーンほどの余裕も万人受けするわかりやすさもない。小猿のようにキーキーわけのわからないことをわめきたてては周囲を振り回す、いまでいう「不思議ちゃん」だ。なんというか、キャラクターの魅力のベクトルが、まったく違うのである。そんなことに驚く一方で、改めて小説版のホリーの「あっけらかんとした屈折ぶり」と、そこからもたらされるかげろうのように稀少な存在感に魅了されるとともに、カポーティという作家の底知れない地力に圧倒された。

同様のことは、訳者の村上春樹氏も解説で述べている。これはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の村上氏による新訳版を読んだときにも思ったことだが、彼の訳した作品を手に取る価値の一つは、巻末に収録されている村上氏の解説だ。もうこれが、なんとも的確かつムダなく読後感をぴったりと、かゆいところに手が届く感じで解説してくれるのである。一部を引用しようかとも思ったが、「どこを」となると全部になってしまうのであきらめた。そして、「みん★」の数を4にするか5にするかでずいぶん迷ったのだが、著者・訳者(解説)の組み合わせの素晴らしさで5にした。どちらか一方が欠けていたら、4にしていたと思う。機会があったらぜひご一読ください。

なお、この本には、『ティファニーで朝食を』のみならず『花盛りの家』『ダイアモンドのギター』『クリスマスの思い出』などの小編も収載されている。そのどれもがすばらしい。ついでに言うと、ティファニーブルーのシンプルな装丁もいい。本棚にずっと入れておきたい作品だ。

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林郁夫『オウムと私』 ★★★★☆

多数の犠牲者を出した事件の全貌を明らかにした本のレビューに、★の数をもって「おもしろい・おもしろくない」という感想は不適切なのかもしれない。しかし、本書に心を揺さぶられた内容があったこととその感想については記しておきたい。

著者の林郁夫氏は、周知のとおり、オウム真理教の幹部「治療省大臣」であり、地下鉄サリン散布事件の実行犯だった人物だ。犯行後、当初死刑は免れないと見られていたが、捜査への協力的な態度や、事件の全貌を明らかにした自供内容の重要性と、被害者および遺族に対する改悛の態度などから、検察側からは異例ともいえる求刑減刑が行われ、結果的に無期懲役が確定した。

本書は、その被告である林氏が、獄中にて半生をふりかえった書である。生まれ育った家庭環境から、幼少時にどのような思考を経て医師として身を立て、また新興宗教に傾倒し人生と家族もろとも捧げてゆき犯罪に身を投じるまでの過程が克明に吐き出されている。

犯罪のみならず、非常識とされる行為があったときに「親の顔が見たい」という表現は、一般的だ。人は自分に理解できない事象を目の当たりしたとき、それは「自分とは異なる環境で育ったからにちがいない」と決め付ける。

しかし、本書を読む限りにおいて、林氏の幼少からの環境で登場する両親の姿は、まっとうすぎるほどまっとうだ。甘やかしすぎないよう注意を払いつつ、社会に適合し役割を果たせるよう懸命に育もうとした片鱗が、そこかしこからうかがえる。一方で、息子自身が歩んだ人生は、そのありふれた両親の願いはもちろん、本人が意図した道とも結果的に反するものだった。

この本で心境を吐露するのは、世のため人のためを真摯に追求しようとした挙句に、「まずは自分が解脱しなければいけない」といつしか道からズレ、踏み外した「真面目すぎた」人物だ。皮肉なことにそうした彼の「足元しか見ようとせずに歩みつづけた」人生とその罪は、本文内容よりもむしろ、病的なほど几帳面かつ誠実に過去を振り返ろうとする著者の姿勢からうかがい知ることができる。

もちろん、獄中記という性質上、自己弁護的な性質をさっぴいて読まねばならない部分もあるだろう。その上でなお、この人の歩んだ人生と、それを狂わせた集団のかもし出す異様な空間について、我々はそれを「異質なもの」として片付けるのではなく、どこか身近なものとして考えるべきなのかもしれない。犠牲者への思いも含めて、読後、やるせない哀しさだけが残った作品だった。

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島田荘司『異邦の騎士』 ★★★☆☆

「メチャメチャ面白い」「傑作ミステリ」の書店POPにつられて購入した作品。冒頭、「ちょっと変わった文体だな」と思った。とにかく一文一文がやたらと短い。そして「!」が連発される。しかし嫌悪感を感じるような類の違和感ではなかった。そしてわけのわからないまま物語に引き込まれていく。

途中、「ちょびっとだけ村上春樹の文体で感じる異郷に放り込まれた感と似てるかも」という気がした。そしてPOPにうたわれている通り、退屈しない作品であったが、結末まで読んだ感想は「まぁまぁ」といったところだった。それは別に作品としての欠陥ではないのだろうと思う。ミステリーファンにとっては、傑作にちがいないのであろうが、私自身が、物語の伏線を重視する「ミステリー小説」としての成り立ちよりも、登場人物のキャラクターだったり、その心の動きの自然さのようなものを重視してしまいがちなために、作品から受ける感銘が小さかったのではないか。だったらミステリー読まなきゃいいのに、ついつい手にとってしまうのだけど(笑)。

この小説でキーマンとなった「御手洗潔」なる人物は、この作品以降、「名探偵御手洗潔」シリーズとして継続していっているらしい。京極夏彦の京極堂みたいな感じか。そういえばあのシリーズも、私には肌に合わなかったな。身の回りの男性ウケはやたらよかったけれども。

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梁石日『カオス』 ★★★☆☆

歌舞伎町を舞台に、様々な宗教や人種、性別の登場人物たちが織り成す狂想曲・・・といったところか。ニューハーフの「タマゴ」の存在感が抜群にいい。作品中では、主人公の李学英が恋焦がれ、強引に掌中に納めようと画策する対象として、日本人ジャズヴォーカリストの今西沙織という女性が登場するが、このヒロインたる沙織とは比べ物にならないぐらい、魅力的なキャラクターなのがタマゴだ。

風林会館前でタマゴとばったり出くわした。ジーパンにノースリーブの赤いシャツを着て、赤いサンダルをはき、肩まで伸びている金髪をなびかせている。眉毛を剃り落とした上に緑色のアイブローペンシルを引き、黒い口紅を塗っている。異様な化粧だが、同時に不思議な魅力を漂わせ、腰をくねらせて闊歩しているタマゴを女でさえ振り返っている。

このタマゴの魅力で★1個追加できるぐらいだ。ひょっとしたら著者も書きながらにして、それに気づいたのではないか?物語のラストは、冒頭の流れとは相反して、このタマゴを主役に終わる。

それにしても、歌舞伎町は、タマゴ同様不思議な魅力を発している街だ。繁華街ならほかにいくらでもあるが、渋谷や六本木とはちょっと違う、雑多な汚らしさと落ち着かきのなさと、それらが共存するために育まれてきたルールがもたらす奇妙な統制感が、なんともいえない魅力をかもしだしている。どれほど住人が入れ替わっても、歌舞伎町は歌舞伎町だ。決してオシャレでも粋でもないこの街が、私はなんとなく好きだ。

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梁石日『闇の子供たち』 ★★★☆☆

タイの幼児売春、臓器売買の実態を描いた作品だ。梁氏が、自らの体験をベースにした私小説のみならず、広く題材を求め、またそれを徹底的に掘り下げて描ききっているところに、作家としての矜持を感じた。発展途上国の現状は、この日本に暮らしていると意識して情報収集しない限りは目にすることも耳にすることもない。

テレビをつければ絶え間なくお笑い番組が流れ、街に出れば流行を身にまとった若者たちが歩く。それぞれに悩みは抱えているのだろうが、幼くして売春婦として売り飛ばされ、絶え間ない虐待の果てにAIDSに感染し、生きながらゴミ捨て場に廃棄される境遇とは比べようもない別世界に生きているのが現実だ。その別世界をいかにして知り、また知らしめるか。

その手段は、報道だけではない。例えば梁氏は小説化するという形でそれを具現化しようとして、あえてこうしたジャーナリスティックなテーマを題材にしたのだろう。私は日々を安穏と暮らすだけで、なにひとつ働きかけてはいないし、またしようともしていない。無知もまた罪のひとつとは、よく言われることだけど、改めてそんなことを自分に重ねて思った。

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梁石日『族譜の果て』 ★★★☆☆

『血と骨』以来、梁石日づいていて、何冊か未読のものをまとめて読んだ。

『族譜の果て』は、『血と骨』同様、著者自身の人生をベースにした作品群の一角を成す小説だ。別に続編でもなんでもないのだが、ついつい『血と骨』の成漢が成人し結婚した後の物語、また梁氏が作家として身を立てる以前を描いた物語として読んでしまう。

タイトルになっている『族譜』は、韓国・朝鮮の両班(ヤンバン)といわれる貴族階級の家系図のことだが、本作のなかで、それらについて触れられたくだりは見受けられない。それをあえてタイトルとしているのは、先祖から受け継がれてきた誇りと責務を担いつつ、末端であがき続ける自分自身への嘲笑と現実との闘いを表現したかったのだろう。

物語の結末にカタルシスはない。冒頭で印刷会社の社長におさまった主人公は、資金繰りに行き詰まって借金地獄に陥り、破滅の道をたどる。一個人、そして家族にとっては悲劇以外のなにものでもないが、一方で当人にとってどんなにすさまじい葛藤と闘いであっても、社会にはごくありふれた現実のヒトコマだ。あえて主人公の復興を描かず、どん底で筆を止めたところに、作者のリアリズム追求への強い思いを感じた。

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矢口敦子『償い』 ★☆☆☆☆

書店の手書きPOPが注目されるようになったのは、テリー・ケイツの小説『白い犬とワルツを』がきっかけだったように記憶している。ベストセラーの火付けに効果的とあって、以来、どこの書店でも手書きPOPを見かけるようになった。版元がこの効果に注目するのは当たり前で、最近ではよく見ると印刷だったりする「手書き風」POPや帯が本の周囲に氾濫するようになった。

かくいう私も、「どこまで書店員が本音で書いてるのか?」と疑いの気持ちをもちつつも、ついついそうしたPOPや帯に惹かれて、初めて目にする作家の作品を手に取ることがある。

この本も、そんな宣伝文句につられて、購入した。しかし、帰りの電車で読み始めた途端「う。失敗したかも・・・」という嫌な予感がした。文体が肌に合わないのだ。小説の冒頭はこんなくだりから始まる。

そのころ、男は羽をもがれた蝿のように地べたを這いずりまわっていた。
埼玉県光市、新宿から東部線の快速電車で三十分のベッド・タウン。男がいつこの土地に足を踏み入れたのか定かではない。そもそもここが埼玉県の光市だということを、男は認識していない。(中略)
しかし、男がここを光市だと認識できないのは、東京のベッド・タウンが個性をもっていないからではない。ここが光市であろうとその他の市であろうと、男にとっては同じことなのだ。「私」が「男」という普通名詞に転落しているなら、男が這いつくばっている土地も固有名詞を喪失している。

うーーーーん。

なんか、過剰だ。

「文学作品を書こう」という意識が空回りしているというか・・・。文章に無駄な意味づけをし、カッコよく表現してみせようとしている感じが、鼻につく。別にそれ自体は悪いことではないのかもしれないが、冒頭の状況説明で、これは力みすぎだろう。話がさっぱり見えずにイライラしてしまう。

しかし、我慢して読みつづけたところ、中盤から力が抜けてきたのか、まわりくどい文章表現は次第に姿を消した。サクサク読めて、さほど退屈なわけでもない。ただ、いかんせんストーリーの組み立てが、安直すぎる。冒頭で言葉遊びをするぐらいなら、もうちょっと設定を練りこめばいいのに。山中の村でもあるまいに東京近郊の市といえば、それなりの都市が舞台だろう。なのに、主人公はじめ、登場人物たちは、やたらと頻繁に偶然出くわし、都合よく結びつき、お手軽に思いつめたり感動したりする。ちょっと歩くと事件の手がかりが見つかったり、決定的な証拠を入手できるのも興醒めだ。

終盤にたどりつくころには、結末に期待する気持ちもなくなっていたが、案の定、安い感動を押し付けられて終わった。

なんだか気の抜けたぬる~いビールを飲まされた感じ。新宿の紀伊国屋ではやたらと大量に平積みされていたが、売れているのだろうか? 幻冬舎は、当たり外れの振幅がデカイなぁ。好きな出版社だが、あんまり商業主義を押し付けられると、ウンザリする。売れてナンボ、結果を出してナンボというのは、出版に限らずどの世界でも同じだと思うが、駄作をあたかも傑作のように過剰に持ち上げるのは、いかがなものかと思う。とまぁ、一読者に過ぎない私が「駄作」と決め付けるのも傲慢な話ではあるが。

言い忘れましたが、本のあらすじは↓です。

36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れ着いた郊外の街で、社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った15歳の少年が犯人ではないかと疑い始めるが…。絶望を抱えて生きる二人の魂が救われることはあるのか?感動の長篇ミステリ。 (amazonより)

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梁石日『超「暴力」的な父親』 ★★☆☆☆

おもしろい小説や映画に出合うと、作者のプロフィールや作品が生み出された背景が知りたくなる。そんなとき、ネットの便利さをしみじみと実感する。

学生時代の私は、勉強ができる生徒ではなかった。活字好きなのに、教科書を読むのが嫌いで、特に暗記モノが苦手だった。現代国語の教科書に載っている小説(夏目漱石の『こころ』とか中島敦の『李陵・山月記』とか)だけはむさぼるように読んでいたけれど。

いま、振り返ると「あのころ、ネットがあったら、もうちょっと勉強が楽しかったんじゃないかな」などと都合のよいことを考える。歴史上の人物やできごとなど、教科書の画一的な表現からはうかがい知ることのできないエピソードを、思いつくままにキーワード検索して掘り起こしていったら、興味の抱き方も違ったはずだ。

・・・と前置きが長くなったが、今回、表題としている梁石日『超「暴力」的な父親』も、同じような好奇心から手に取った本だ。前回の日記で梁石日『血と骨』について書いたが、この作品は、実在の人物(著者の父親)がモデルとされている。作品に魅了された私は、あの化け物のような父親の姿が「いったいどこまでフィクションなのか」が知りたくてたまらなくなってしまった。

そしていつものように読後のネットサーフィンをしているなかで、この本を見つけた。『超「暴力」的な父親』は、『血と骨』の著者である梁石日さんが、実際の父親や家族の思い出について語り、それをインタビュアーが聞き書きの形でまとめたものだ。やはり梁さん自身の筆によるところではないということもあり、内容は非常に薄い。全般に『血と骨』のあらすじをざっとなぞったようなもので、単独作品として読んで満足感の得られるものではなかった。

しかし、そもそも手にとった動機が前述したようなものであったため、「えええええ!あのエピソードも、このエピソードも、全部本当の話だったの!?」という衝撃は堪能することができた。というより、「これはフィクションなのだから」と自分をなだめながら読んだ部分が、リアルな出来事だったということを知り、あらためてソラ恐ろしくなった。ドキュメンタリーやノンフィクションをうたっているわけでもない芸術作品の評価は、作品内で完結させるべきだと考えると、邪道な読み方なのだとは思うが・・・。

『血と骨』では、高利貸しの父親が取りたての際に目の前のコップを噛み砕くと、その破片で自分の腕をぐりぐりと切りつけてしたたる血をコップに受け、「さあ、この血を飲め!わしの金を喰う奴は、わしの血を吸うのと同じだ。わしの血を飲め!」と借り手の男に叫ぶシーンがある。そんな父親が、そしてそんな光景を目にする息子がいったいどれだけいようか?

『超「暴力」的な父親』のまえがきには、梁さんのこんな言葉がある。

友人の作家・金石範氏は会うたび、『血と骨』について語り、「この小説は一種の奇跡のようなものだ」と評してくれた。また、当時六十歳だった私に詩人の金時鐘氏は「この小説を書くのに六十年の歳月がかかったね」とねぎらってくれた。そして、友人の女流陶芸家からの手紙に綴られていた、「お父様に感謝しなさい」という言葉が私の胸に今も刻まれている。

人にとってなにが幸せか・・・ということは、ひとことでは結論づけられないだろう。努力によって成し遂げられる幸せもあれば、そうでない僥倖もある。努力という体育会系の言葉では言い表せないものもきっとあるはずだ。いや、そもそも「幸せ」という言葉すら、一面的で陳腐な表現なのかもしれない。持ってうまれた環境でもがきつづけて、結果的に掴み取る「なにか」。それは人生が終わりを迎えようとするときにこそ、初めて清算されるものなのではないか。自分の人生がいつ終焉するのかは、自分自身はもちろん、誰も知らない。しかし、いずれ必ずや訪れる最期の瞬間に、なにかしらの満足を感じることのできる人生が送れたらよいなと思う。

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梁石日『血と骨』 ★★★★★

ブログを始めた日にたまたま読み終え、そして最初に書くのがこの作品の感想という偶然が、なんだかうれしい。再読なので大げさかもしれないが、この小説は、そのぐらい私にとって思い入れの深い作品だ。

初めて読んだのは、いまから5年ぐらい前だろうか。映画化される少し前だったように思う。当初は「在日韓国人による、生い立ちをベースにした小説」というぐらいの認識しかなかった私だが、最初のページをめくったときからグイグイと引き込まれ、途中からは通勤電車の中で読み、喫茶店で読み、エスカレーターに乗る少しの間にも本を広げ、最後は歩きながらも読む始末だった。

再読を試みたいま、ストーリーはしっかりと頭の中に残っているにもかかわらず、その魅力は少しも色褪せていなかった。

物語は1930年代、戦後間もなくの大阪が舞台だ。日本がまだ混乱のさなかにあり、越境してきた民と地の民、双方が混沌のなかに放り出された時代だった。主人公は、2人いる。ひとりは物語の主たる視点(モデルは筆者)である金成漢、そしてもうひとりが成漢の父である金俊平だ。小説は、筆者の分身であり語り部であり傍観者である金成漢が生を授かる以前の、父・俊平の若かりし日、蒲鉾工場での凄絶な日常からスタートする。

作者の実父をモデルに、その体躯と凶暴性で極道からも畏れられた男・金俊平(キム・ジュンピョン)の、蒲鉾製造業や高利貸しによる事業の成功やその裏での実の家族に対する暴力、そしてその後の愛人との結婚による転落、遂には「故郷」である北朝鮮での孤独な死までを描いた小説。第11回の山本周五郎賞を受賞しその後第119回直木賞にもノミネートされた。(Wikipediaより)

簡潔にまとめるなら、そのとおりだ。しかしどこか言葉足らずに感じてしまう。それほどこの小説に登場する「金俊平」の存在感は強烈だからだ。国境を越えて、「在日文学」の枠を越えてすさまじい。

愛し、犯し、嬲り、殺す。

こんな人間は、ありえないとページを繰るたびに思う。

しかしその一方で、これこそが自分の本性でもあるかもしれないという激情と諦念に身を震わされる思いがする。なぜなら、金俊平の奔放なる誨淫や蹂躙や殺戮への欲望に、ヒトの心の奥底に潜む共通項を感じ、揺さぶられるからだ。

「きっと創作なんだ」「どこまで創作なんだ」

その繰り返しの混沌のなかで、いつしか「金俊平」という化物に恋がれている自分に気がつく。

再読を終えたあと、ネットでこの小説について書かれたものをいくつか見たところ、その創作物としての欠点をつくものも多かった。なるほどそういう視点もあるかと思う反面、「登場人物たちの視点が定まらない」という文庫本解説(金石範氏)をそのままなぞったものや、「金俊平に関わる女性たちが、あのような化物におとなしく蹂躙され続けているのが非現実的だ」というものには、いまひとつすんなりと納得できないところがあった。

私は女だが、この作品に登場する女性たちが、金俊平という怪物が作りだすブラックホールに巻き込まれていく気持ちが、どこか理解できる。それは理屈ではなく、本能に近いものなのかもしれない。誤解を恐れず言うならば、女性とはどこか、蹂躙されてみたい願望を持つ生き物ではないか。そして裏返せば男もまた、どこか純潔を踏みにじってみたいというあくなき欲望を持っているのではないか。また、登場人物の視点が定まらないことについては、むしろそのことが作品が単調になることを軽減し、躍動感をもたらしていると感じた。

「成漢にとって金俊平は父というより朝鮮の精神風土の根っこに巣喰っている正体不明の鵺(ぬえ)のような存在だった。頭が猿、胴がたぬき、手足がとら、尾が蛇、声はとらつぐみに似ているといった不可解な怪物である。だがそれは乗り越えることのできない自己自身であり、どこまでいってもおのれの分身であるおのれが、またしてもおのれを産みつづけるという無限級数的な陣痛にさいなまれるのだ。いったい自分は何者なのか?父であり夫であり、男であり力の象徴であり、この世界に対する自己顕現の意志を暴力によってのみ貫徹できると信じているのだった。それ以外にどんな方法があるのか?」

このくだりは、どんな評論より私の心にはストレートに響く。そう。鵺なのだ。人智を超えた伝説上の生き物に、ヒトは魅了されずにはおれない。鵺とまぐわった女たちも、そのひとりだ。そしてそんな伝説上の生物と、ヒトとの間に生まれたのが、主人公であり筆者である金成漢だ。そこに起因する葛藤と戦いと愛憎とを描いたのが、この作品なのである。

そしてもう一カ所、金俊平に蹂躙され続け、しかしながら結局、そのブラックホールを逃れ出ることができなかった主人公(筆者)成漢の母であり俊平の妻である英姫の心象を描いた一文にも触れておきたい。

「この件を機に数日、金俊平は荒れるだろう。英姫は覚悟をきめて花子のつくってくれたおにぎりを食べて腹ごしらえをすると、金俊平の帰りを待った。やがて真夜中に酒に酔った金俊平のけもののような怒声が響いてきた。英姫と子供たちは裏の物干し場から屋根伝いに隣家へと逃れて行った。身を切るような寒気の中を隣家へと逃れて行く途中、英姫は夜空を見上げた。夜空に燦然と輝く星屑が美しかった。」

犯す立場、犯される立場、どちらにとってもそれはある意味運命だ。犯される英姫にはもちろん犯す俊平にとっても、それはかえようもない、そしてかけがえのない壮絶なる自然のひとコマなのかもしれない。そこに生殖行為が加わり、血縁関係が産み出されれば尚のことだ。運命=血なのか。血に抗うことは、運命に抗うことではないかとすら思える。

「朝鮮の巫女の歌の中に、血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ、という一節がある。朝鮮の父親は息子に対してよく「おまえはわしの骨(クワン)だ」と言うが、それは家父長制度を象徴する言葉であった。血もまた骨によって創られることを前提にしているからだ。土葬された死者の血肉は腐り果てようとも骨だけは残るという意味がこめられている。血は水より濃いと言うが、骨は血より濃いのである。」

血と骨。それはどうあがいても他者には共有できないものだ。その恨と愛憎を徹底的に文字にしたことこそが、この小説の魅力であり、また他者と容易に共有することができない価値なのではないか。

ちなみに、Wikipediaほかの『血と骨』解説が物足りなかったのと同様(まぁWikiは辞書なので解説が充実してないのは当たり前だが)、映画版の『血と骨』も、私には大層物足りなかった。ビートたけしの熱演が話題になったが、原作の金俊平の怪物ぶりにはとうてい及ばないし、また作品全体にも原作の荒削りでありながら本質をゆるがせないパワーが感じられなかった。特筆すべきは、強いていえばオダギリジョーの演技が輝いていたことぐらいか。鑑賞後、『パッチギ!』の井筒和幸さんで撮ったものも観てみてみたいなぁと思った。この作品のドロドロした空気は、井筒監督の持ち味とは逆の方向性かもしれないけれど。

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