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2008年4月

矢口敦子『償い』 ★☆☆☆☆

書店の手書きPOPが注目されるようになったのは、テリー・ケイツの小説『白い犬とワルツを』がきっかけだったように記憶している。ベストセラーの火付けに効果的とあって、以来、どこの書店でも手書きPOPを見かけるようになった。版元がこの効果に注目するのは当たり前で、最近ではよく見ると印刷だったりする「手書き風」POPや帯が本の周囲に氾濫するようになった。

かくいう私も、「どこまで書店員が本音で書いてるのか?」と疑いの気持ちをもちつつも、ついついそうしたPOPや帯に惹かれて、初めて目にする作家の作品を手に取ることがある。

この本も、そんな宣伝文句につられて、購入した。しかし、帰りの電車で読み始めた途端「う。失敗したかも・・・」という嫌な予感がした。文体が肌に合わないのだ。小説の冒頭はこんなくだりから始まる。

そのころ、男は羽をもがれた蝿のように地べたを這いずりまわっていた。
埼玉県光市、新宿から東部線の快速電車で三十分のベッド・タウン。男がいつこの土地に足を踏み入れたのか定かではない。そもそもここが埼玉県の光市だということを、男は認識していない。(中略)
しかし、男がここを光市だと認識できないのは、東京のベッド・タウンが個性をもっていないからではない。ここが光市であろうとその他の市であろうと、男にとっては同じことなのだ。「私」が「男」という普通名詞に転落しているなら、男が這いつくばっている土地も固有名詞を喪失している。

うーーーーん。

なんか、過剰だ。

「文学作品を書こう」という意識が空回りしているというか・・・。文章に無駄な意味づけをし、カッコよく表現してみせようとしている感じが、鼻につく。別にそれ自体は悪いことではないのかもしれないが、冒頭の状況説明で、これは力みすぎだろう。話がさっぱり見えずにイライラしてしまう。

しかし、我慢して読みつづけたところ、中盤から力が抜けてきたのか、まわりくどい文章表現は次第に姿を消した。サクサク読めて、さほど退屈なわけでもない。ただ、いかんせんストーリーの組み立てが、安直すぎる。冒頭で言葉遊びをするぐらいなら、もうちょっと設定を練りこめばいいのに。山中の村でもあるまいに東京近郊の市といえば、それなりの都市が舞台だろう。なのに、主人公はじめ、登場人物たちは、やたらと頻繁に偶然出くわし、都合よく結びつき、お手軽に思いつめたり感動したりする。ちょっと歩くと事件の手がかりが見つかったり、決定的な証拠を入手できるのも興醒めだ。

終盤にたどりつくころには、結末に期待する気持ちもなくなっていたが、案の定、安い感動を押し付けられて終わった。

なんだか気の抜けたぬる~いビールを飲まされた感じ。新宿の紀伊国屋ではやたらと大量に平積みされていたが、売れているのだろうか? 幻冬舎は、当たり外れの振幅がデカイなぁ。好きな出版社だが、あんまり商業主義を押し付けられると、ウンザリする。売れてナンボ、結果を出してナンボというのは、出版に限らずどの世界でも同じだと思うが、駄作をあたかも傑作のように過剰に持ち上げるのは、いかがなものかと思う。とまぁ、一読者に過ぎない私が「駄作」と決め付けるのも傲慢な話ではあるが。

言い忘れましたが、本のあらすじは↓です。

36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れ着いた郊外の街で、社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った15歳の少年が犯人ではないかと疑い始めるが…。絶望を抱えて生きる二人の魂が救われることはあるのか?感動の長篇ミステリ。 (amazonより)

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映画『クローバー・フィールド』 ★★★★☆

もう2週間ほど前になるが、評判を聞いて劇場に足を運び、鑑賞してきた。実は『ノー・カントリー』も観たかったのだが、久々の映画館とあって、なんとなく派手なものが観たいような気がして、この映画にした。

『クローバー・フィールド』はいわゆる「怪獣モノ」のパニック映画だ。ゴジラへのオマージュとされるこの映画のおおざっぱな設定はこんな感じ。

巨大都市ニューヨークを舞台に、“未知の何者か”が大規模な破壊を繰り広げるSFパニック・アクション超大作。『M:i:III』のJ・J・エイブラムスによる徹底した秘密主義の下、“映画史上初めてタイトルも隠した映画”として全世界で話題が集中。監督はテレビドラマ「フェリシティの青春」シリーズなどを手掛けたマット・リーヴス。自由の女神の頭部が破壊され、突然眼前に落下してくるパニック映像や、巨大都市を崩壊と破滅に追い込む“HAKAISHA”など未曾有の展開に期待。(シネマトゥデイより)

全編がハンディカムによる映像で、「未知の生物の襲来から逃げ惑う主人公たちによる記録映像」のスタイルをとっている。劇場内には「撮影方法により、鑑賞時にはジェットコースターに乗ったときのような乗り物酔いを感じる可能性があります」という注意喚起のポスターが貼られ、よほど観にくいのかと思っていたら、さほどでもなく、映像そのものへの不快感はなかった。

鑑賞後の感想も、娯楽映画として十分満足できるものだった。傑作とまでは言いがたいが、いわゆる「ハラハラドキドキ」を堪能できるつくりにはなっているのではないだろうか。低予算を逆手にとり「全体像を見せないことで恐怖感をあおる」という狙いは、ほぼ目的どおり達せられているように思う。また、謎を謎のまま明かさずに終了している部分も多く、帰宅して調べたら、映画に登場したさまざまな伏線を元に、物語の全体像を推測するホームページがたくさんあり、「なるほど!」とヒザを打つ一方で、既に制作が決定しているという続編が楽しみになった。

そしてこの映画にはもうひとつ、恋愛映画としての側面がある。物語は、ニューヨークに住む主人公ロブが、日本に転勤するための送別パーティのシーンから始まっている。ロブのガールフレンドもこのパーティに出席しているが、彼は周囲の心配をよそに「僕は日本に行くんだし」「そもそもなりゆきで寝てしまったんだ」とあっさり彼女をふってしまう。しかしその後、大音声とともにパニックがスタートすると、あれほど彼女に未練がなさそうだったロブが、負傷して自宅に閉じ込められた彼女からの電話を受け、死にに行くようなものとわかっていながら助けに走りだすのだ。

「さっきまで冷たかったのに、ずいぶん唐突な変わりようだな」と最初は思った。しかし途中から、それが作者にとっては意図的な変節ではないかという気がしてきた。ふたりの関係のみならず、破壊されたニューヨークの街とその住民との関係もそうだ。人々が平凡な日常の営みのなかで、そのあたりまえの幸福の大きさに思いを馳せることはなかなかない。しかし、日常が無慈悲かつ決定的に破壊され、失われたとき、初めてそれらが自分にとっていかにかけがえのないものであったかに気づくのではないか。その蹂躙が不条理であればあるほどに。

もしいま東京で同じことが起こったら、私はなにを考え、どこへ走るのだろう?そんなことを思った作品だった。

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梁石日『超「暴力」的な父親』 ★★☆☆☆

おもしろい小説や映画に出合うと、作者のプロフィールや作品が生み出された背景が知りたくなる。そんなとき、ネットの便利さをしみじみと実感する。

学生時代の私は、勉強ができる生徒ではなかった。活字好きなのに、教科書を読むのが嫌いで、特に暗記モノが苦手だった。現代国語の教科書に載っている小説(夏目漱石の『こころ』とか中島敦の『李陵・山月記』とか)だけはむさぼるように読んでいたけれど。

いま、振り返ると「あのころ、ネットがあったら、もうちょっと勉強が楽しかったんじゃないかな」などと都合のよいことを考える。歴史上の人物やできごとなど、教科書の画一的な表現からはうかがい知ることのできないエピソードを、思いつくままにキーワード検索して掘り起こしていったら、興味の抱き方も違ったはずだ。

・・・と前置きが長くなったが、今回、表題としている梁石日『超「暴力」的な父親』も、同じような好奇心から手に取った本だ。前回の日記で梁石日『血と骨』について書いたが、この作品は、実在の人物(著者の父親)がモデルとされている。作品に魅了された私は、あの化け物のような父親の姿が「いったいどこまでフィクションなのか」が知りたくてたまらなくなってしまった。

そしていつものように読後のネットサーフィンをしているなかで、この本を見つけた。『超「暴力」的な父親』は、『血と骨』の著者である梁石日さんが、実際の父親や家族の思い出について語り、それをインタビュアーが聞き書きの形でまとめたものだ。やはり梁さん自身の筆によるところではないということもあり、内容は非常に薄い。全般に『血と骨』のあらすじをざっとなぞったようなもので、単独作品として読んで満足感の得られるものではなかった。

しかし、そもそも手にとった動機が前述したようなものであったため、「えええええ!あのエピソードも、このエピソードも、全部本当の話だったの!?」という衝撃は堪能することができた。というより、「これはフィクションなのだから」と自分をなだめながら読んだ部分が、リアルな出来事だったということを知り、あらためてソラ恐ろしくなった。ドキュメンタリーやノンフィクションをうたっているわけでもない芸術作品の評価は、作品内で完結させるべきだと考えると、邪道な読み方なのだとは思うが・・・。

『血と骨』では、高利貸しの父親が取りたての際に目の前のコップを噛み砕くと、その破片で自分の腕をぐりぐりと切りつけてしたたる血をコップに受け、「さあ、この血を飲め!わしの金を喰う奴は、わしの血を吸うのと同じだ。わしの血を飲め!」と借り手の男に叫ぶシーンがある。そんな父親が、そしてそんな光景を目にする息子がいったいどれだけいようか?

『超「暴力」的な父親』のまえがきには、梁さんのこんな言葉がある。

友人の作家・金石範氏は会うたび、『血と骨』について語り、「この小説は一種の奇跡のようなものだ」と評してくれた。また、当時六十歳だった私に詩人の金時鐘氏は「この小説を書くのに六十年の歳月がかかったね」とねぎらってくれた。そして、友人の女流陶芸家からの手紙に綴られていた、「お父様に感謝しなさい」という言葉が私の胸に今も刻まれている。

人にとってなにが幸せか・・・ということは、ひとことでは結論づけられないだろう。努力によって成し遂げられる幸せもあれば、そうでない僥倖もある。努力という体育会系の言葉では言い表せないものもきっとあるはずだ。いや、そもそも「幸せ」という言葉すら、一面的で陳腐な表現なのかもしれない。持ってうまれた環境でもがきつづけて、結果的に掴み取る「なにか」。それは人生が終わりを迎えようとするときにこそ、初めて清算されるものなのではないか。自分の人生がいつ終焉するのかは、自分自身はもちろん、誰も知らない。しかし、いずれ必ずや訪れる最期の瞬間に、なにかしらの満足を感じることのできる人生が送れたらよいなと思う。

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梁石日『血と骨』 ★★★★★

ブログを始めた日にたまたま読み終え、そして最初に書くのがこの作品の感想という偶然が、なんだかうれしい。再読なので大げさかもしれないが、この小説は、そのぐらい私にとって思い入れの深い作品だ。

初めて読んだのは、いまから5年ぐらい前だろうか。映画化される少し前だったように思う。当初は「在日韓国人による、生い立ちをベースにした小説」というぐらいの認識しかなかった私だが、最初のページをめくったときからグイグイと引き込まれ、途中からは通勤電車の中で読み、喫茶店で読み、エスカレーターに乗る少しの間にも本を広げ、最後は歩きながらも読む始末だった。

再読を試みたいま、ストーリーはしっかりと頭の中に残っているにもかかわらず、その魅力は少しも色褪せていなかった。

物語は1930年代、戦後間もなくの大阪が舞台だ。日本がまだ混乱のさなかにあり、越境してきた民と地の民、双方が混沌のなかに放り出された時代だった。主人公は、2人いる。ひとりは物語の主たる視点(モデルは筆者)である金成漢、そしてもうひとりが成漢の父である金俊平だ。小説は、筆者の分身であり語り部であり傍観者である金成漢が生を授かる以前の、父・俊平の若かりし日、蒲鉾工場での凄絶な日常からスタートする。

作者の実父をモデルに、その体躯と凶暴性で極道からも畏れられた男・金俊平(キム・ジュンピョン)の、蒲鉾製造業や高利貸しによる事業の成功やその裏での実の家族に対する暴力、そしてその後の愛人との結婚による転落、遂には「故郷」である北朝鮮での孤独な死までを描いた小説。第11回の山本周五郎賞を受賞しその後第119回直木賞にもノミネートされた。(Wikipediaより)

簡潔にまとめるなら、そのとおりだ。しかしどこか言葉足らずに感じてしまう。それほどこの小説に登場する「金俊平」の存在感は強烈だからだ。国境を越えて、「在日文学」の枠を越えてすさまじい。

愛し、犯し、嬲り、殺す。

こんな人間は、ありえないとページを繰るたびに思う。

しかしその一方で、これこそが自分の本性でもあるかもしれないという激情と諦念に身を震わされる思いがする。なぜなら、金俊平の奔放なる誨淫や蹂躙や殺戮への欲望に、ヒトの心の奥底に潜む共通項を感じ、揺さぶられるからだ。

「きっと創作なんだ」「どこまで創作なんだ」

その繰り返しの混沌のなかで、いつしか「金俊平」という化物に恋がれている自分に気がつく。

再読を終えたあと、ネットでこの小説について書かれたものをいくつか見たところ、その創作物としての欠点をつくものも多かった。なるほどそういう視点もあるかと思う反面、「登場人物たちの視点が定まらない」という文庫本解説(金石範氏)をそのままなぞったものや、「金俊平に関わる女性たちが、あのような化物におとなしく蹂躙され続けているのが非現実的だ」というものには、いまひとつすんなりと納得できないところがあった。

私は女だが、この作品に登場する女性たちが、金俊平という怪物が作りだすブラックホールに巻き込まれていく気持ちが、どこか理解できる。それは理屈ではなく、本能に近いものなのかもしれない。誤解を恐れず言うならば、女性とはどこか、蹂躙されてみたい願望を持つ生き物ではないか。そして裏返せば男もまた、どこか純潔を踏みにじってみたいというあくなき欲望を持っているのではないか。また、登場人物の視点が定まらないことについては、むしろそのことが作品が単調になることを軽減し、躍動感をもたらしていると感じた。

「成漢にとって金俊平は父というより朝鮮の精神風土の根っこに巣喰っている正体不明の鵺(ぬえ)のような存在だった。頭が猿、胴がたぬき、手足がとら、尾が蛇、声はとらつぐみに似ているといった不可解な怪物である。だがそれは乗り越えることのできない自己自身であり、どこまでいってもおのれの分身であるおのれが、またしてもおのれを産みつづけるという無限級数的な陣痛にさいなまれるのだ。いったい自分は何者なのか?父であり夫であり、男であり力の象徴であり、この世界に対する自己顕現の意志を暴力によってのみ貫徹できると信じているのだった。それ以外にどんな方法があるのか?」

このくだりは、どんな評論より私の心にはストレートに響く。そう。鵺なのだ。人智を超えた伝説上の生き物に、ヒトは魅了されずにはおれない。鵺とまぐわった女たちも、そのひとりだ。そしてそんな伝説上の生物と、ヒトとの間に生まれたのが、主人公であり筆者である金成漢だ。そこに起因する葛藤と戦いと愛憎とを描いたのが、この作品なのである。

そしてもう一カ所、金俊平に蹂躙され続け、しかしながら結局、そのブラックホールを逃れ出ることができなかった主人公(筆者)成漢の母であり俊平の妻である英姫の心象を描いた一文にも触れておきたい。

「この件を機に数日、金俊平は荒れるだろう。英姫は覚悟をきめて花子のつくってくれたおにぎりを食べて腹ごしらえをすると、金俊平の帰りを待った。やがて真夜中に酒に酔った金俊平のけもののような怒声が響いてきた。英姫と子供たちは裏の物干し場から屋根伝いに隣家へと逃れて行った。身を切るような寒気の中を隣家へと逃れて行く途中、英姫は夜空を見上げた。夜空に燦然と輝く星屑が美しかった。」

犯す立場、犯される立場、どちらにとってもそれはある意味運命だ。犯される英姫にはもちろん犯す俊平にとっても、それはかえようもない、そしてかけがえのない壮絶なる自然のひとコマなのかもしれない。そこに生殖行為が加わり、血縁関係が産み出されれば尚のことだ。運命=血なのか。血に抗うことは、運命に抗うことではないかとすら思える。

「朝鮮の巫女の歌の中に、血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ、という一節がある。朝鮮の父親は息子に対してよく「おまえはわしの骨(クワン)だ」と言うが、それは家父長制度を象徴する言葉であった。血もまた骨によって創られることを前提にしているからだ。土葬された死者の血肉は腐り果てようとも骨だけは残るという意味がこめられている。血は水より濃いと言うが、骨は血より濃いのである。」

血と骨。それはどうあがいても他者には共有できないものだ。その恨と愛憎を徹底的に文字にしたことこそが、この小説の魅力であり、また他者と容易に共有することができない価値なのではないか。

ちなみに、Wikipediaほかの『血と骨』解説が物足りなかったのと同様(まぁWikiは辞書なので解説が充実してないのは当たり前だが)、映画版の『血と骨』も、私には大層物足りなかった。ビートたけしの熱演が話題になったが、原作の金俊平の怪物ぶりにはとうてい及ばないし、また作品全体にも原作の荒削りでありながら本質をゆるがせないパワーが感じられなかった。特筆すべきは、強いていえばオダギリジョーの演技が輝いていたことぐらいか。鑑賞後、『パッチギ!』の井筒和幸さんで撮ったものも観てみてみたいなぁと思った。この作品のドロドロした空気は、井筒監督の持ち味とは逆の方向性かもしれないけれど。

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【雑記】ごあいさつ

友達の影響で、ブログ始めました。
3日坊主になったときは「エイプリルフール始動だし」という
言い訳もできそうな年度始めの日に立ち上げることにしました。

ここでは、私が日々触れた小説や、映画や、その他の創作物の
感想をしたためてゆこうかなと思っています。
最近、出会った人の名前すら忘れがちな自分の
鑑賞備忘録も兼ねています。
どうぞよろしくお願いいたします。

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