矢口敦子『償い』 ★☆☆☆☆
書店の手書きPOPが注目されるようになったのは、テリー・ケイツの小説『白い犬とワルツを』がきっかけだったように記憶している。ベストセラーの火付けに効果的とあって、以来、どこの書店でも手書きPOPを見かけるようになった。版元がこの効果に注目するのは当たり前で、最近ではよく見ると印刷だったりする「手書き風」POPや帯が本の周囲に氾濫するようになった。
かくいう私も、「どこまで書店員が本音で書いてるのか?」と疑いの気持ちをもちつつも、ついついそうしたPOPや帯に惹かれて、初めて目にする作家の作品を手に取ることがある。
この本も、そんな宣伝文句につられて、購入した。しかし、帰りの電車で読み始めた途端「う。失敗したかも・・・」という嫌な予感がした。文体が肌に合わないのだ。小説の冒頭はこんなくだりから始まる。
そのころ、男は羽をもがれた蝿のように地べたを這いずりまわっていた。
埼玉県光市、新宿から東部線の快速電車で三十分のベッド・タウン。男がいつこの土地に足を踏み入れたのか定かではない。そもそもここが埼玉県の光市だということを、男は認識していない。(中略)
しかし、男がここを光市だと認識できないのは、東京のベッド・タウンが個性をもっていないからではない。ここが光市であろうとその他の市であろうと、男にとっては同じことなのだ。「私」が「男」という普通名詞に転落しているなら、男が這いつくばっている土地も固有名詞を喪失している。
うーーーーん。
なんか、過剰だ。
「文学作品を書こう」という意識が空回りしているというか・・・。文章に無駄な意味づけをし、カッコよく表現してみせようとしている感じが、鼻につく。別にそれ自体は悪いことではないのかもしれないが、冒頭の状況説明で、これは力みすぎだろう。話がさっぱり見えずにイライラしてしまう。
しかし、我慢して読みつづけたところ、中盤から力が抜けてきたのか、まわりくどい文章表現は次第に姿を消した。サクサク読めて、さほど退屈なわけでもない。ただ、いかんせんストーリーの組み立てが、安直すぎる。冒頭で言葉遊びをするぐらいなら、もうちょっと設定を練りこめばいいのに。山中の村でもあるまいに東京近郊の市といえば、それなりの都市が舞台だろう。なのに、主人公はじめ、登場人物たちは、やたらと頻繁に偶然出くわし、都合よく結びつき、お手軽に思いつめたり感動したりする。ちょっと歩くと事件の手がかりが見つかったり、決定的な証拠を入手できるのも興醒めだ。
終盤にたどりつくころには、結末に期待する気持ちもなくなっていたが、案の定、安い感動を押し付けられて終わった。
なんだか気の抜けたぬる~いビールを飲まされた感じ。新宿の紀伊国屋ではやたらと大量に平積みされていたが、売れているのだろうか? 幻冬舎は、当たり外れの振幅がデカイなぁ。好きな出版社だが、あんまり商業主義を押し付けられると、ウンザリする。売れてナンボ、結果を出してナンボというのは、出版に限らずどの世界でも同じだと思うが、駄作をあたかも傑作のように過剰に持ち上げるのは、いかがなものかと思う。とまぁ、一読者に過ぎない私が「駄作」と決め付けるのも傲慢な話ではあるが。
言い忘れましたが、本のあらすじは↓です。
36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れ着いた郊外の街で、社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った15歳の少年が犯人ではないかと疑い始めるが…。絶望を抱えて生きる二人の魂が救われることはあるのか?感動の長篇ミステリ。 (amazonより)
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